コラム

アウトドアブランドビジネスのルーツ

「好きなことをやり続ける」
88歳のスキーヤー

2024.2.26

RCTジャパンは、1997年に来店客数計測システムの輸入・販売事業のため、
僕の兄、福島嘉之が立ち上げた会社です。

その後、Webサイト制作・運用ビジネス、2006年にスウェーデンのスキーウエアブランド「SOS」の輸入代理店としての事業も開始しました。
一見するとシステムとスキーウエアって何のつながりもないのに、と感じられる方もいらっしゃると思います。ですが、僕たちが運営するアウトドアウェア店では、システムからはじき出されるデータの検証や、お客様へのサービス提供など、「システム」と「お店」が相関してそれぞれの事業の後押しをしています。
なぜ、兄はアウトドアブランドビジネスを手掛けようと思ったのか。
それは、僕たちの父 福島一嘉の「好きを極める」生き方が大きく影響しているのではないかと思います。
今でも、冬がやってくると、シーズン券を購入し新潟県でスキー三昧の日々を送る僕たちの父の姿にその原点をたどります。

Photo: Sosuke Watanabe

朝から大粒の雪が降り続き、水分をたっぷり含んだ雪がワイパーにまとわりつく。
2月だというのに天気予報は雨で、撮影には厳しい状況を予測したけれども、かろうじて雪になってくれた。
新潟県・岩原スキー場のリフト乗り場で、父一嘉と僕、僕の家族(妻・娘2人)と合流した。「おじいちゃんのホームゲレンデをみんなで滑ろう」というのがこの日の目的だ。

1990年初頭、日本はスキーバブル全盛期。蛍光色や派手な柄のスキーウエアが流行っていた時代に、スウェーデンから良質なスキーウエアを輸入し、ヨーロッパのスキーカルチャーをファッションを通して日本に紹介したのが父一嘉だ。
2024年1月現在88歳、シーズン券を購入しスキーをライフスタイルとする父の足跡をたどる。

「スキーを始めたのは4〜5歳の頃。父が、越後湯沢の一本杉(現・一本杉スノーパーク)に連れて行ってくれたのが最初です。戦前ですからもちろんリフトもないし、竹スキーを割って履いたのを今も覚えています。中高生時代は燕温泉の岩戸屋が常宿でね、よく通っていました。関山駅から荷物担いで登っていくのが大変でしたね」(一嘉)

昭和10年、東京生まれの父一嘉。新潟県・燕温泉といえば、妙高山の裾野、
雪深い最奥地にあり大正時代から山スキー愛好家に親しまれた歴史ある場所。
関山駅から徒歩でのアクセスとなれば雪深い上り坂を約10km、想像しただけで過酷である。

高度経済成長の波に乗りスキーブームが訪れたのは大学時代。スキー客でごった返す上野駅から網棚に寝っ転がり夜行列車で滑りに行ったもんだよ、と笑う。

実家は藍染の専門店を営んでおり、スキーは没頭した趣味のうちのひとつ。
スキー競技や技術探求のジャンルには関心を持たず、自己流のレジャースキー一筋。もうひとつ、今も愛して止まないのがクルマだ。

「初代フェアレディZの原型となったSR311で富士スピードウェイのバンクを走っていたんですよ。そのクルマはしばらく銀座の日産ショールームに飾られていて、その後座間(神奈川県)にある日産の記念館に寄付しました」(一嘉)

「スキーの醍醐味はどんなところ」と尋ねると、「スピードだね」と即答。
富士スピードウェイで300km出すのが夢だったというクルマの話と、誰よりも早く滑り降りる父の姿がリンクする。

「40歳くらいからヨーロッパに通うようになったんです。
最初のきっかけはクルマでした。古いクルマを大事にしているイギリスに、
ロータス・エランを見に行きたくてね」

同じ頃、オーストリアの金メダリスト、トニー・ザイラーの映画を見て、
ヨーロッパのスキーリゾートにも憧れを抱くようになる。それから年1〜2回、
一度行けば1カ月というスパンで、ヨーロッパに通い続けた。6〜7年前まで、
実に40年以上通ったという。

父の結婚式はスイス・グリンデルワルドの山の教会で挙げ、神父さんたちは挙式後、スキーで下っていったというヨーロッパアルプスならではのエピソードも微笑ましい。ツェルマット、バルディゼール、トロワバレー、ドロミテなど、旅したリゾートは数知れず。なかでもツェルマット(写真)はお気に入りで、様々な縁を繋いできた場所だという。

「ツェルマットで知り合ったガイドさんの紹介で、スウェーデン大使の奥さんと親しくなったんです。その縁で、スウェーデンのSOSというブランドのスキーセーターを日本でも販売しよう!という話になりました」

SOSとは“Sports wear of Sweden”の頭文字を由来とした1982年にスウェーデンで誕生したスキーウエアブランド。
ヨーロッパのエキストリームスキーヤーやガイドたちが「自分たちが本当に着たいウエアを作ろう」と、オリジナリティに富んだウエアを展開していた。

1991年にオープンした「SOS自由が丘本店」(現・UPLND自由が丘)。
お店がオープンする以前、兄がジェットスキーショップとして使っており、
店舗の奥の階段を降りると半地下となるスペースは、父が大好きなクルマをいじるために使っていた場所だった。

「ちょうどジェットスキーの店を閉めようかという時だったので、そのスペースでSOSを始めました。スキーセーターをきっかけに、そのあとはジャケットだけ仕入れて売っていたんです。パンツまで仕入れるお金がなくて(笑)。それから徐々にSOSのファンがついてきました」

国産スキーウエアメーカーが隆盛を極めていた時代、SOSはニッチな存在でありながらも、デザイン性と高品質を求める感度の高いスキーヤーやモーグルをはじめとするフリースタイルスキーヤーたちの心を掴んだ。

現在、ホグロフスやヘストラ、ピークパフォーマンスなど
数多くの北欧アウトドアブランドが日本でも定着しているが、
これらの輸入販売の原点は「SOS自由が丘本店」と言っても過言ではないだろう。
物販のみならず、ショップ主導の“遊びの提案”として、
ガイドツアーやオフシーズンのイベントなども多数開催し、
海外と日本のスキー文化を繋いだり、フリースキーヤーたちが集まる場として、
スキー界にフレッシュな風を吹かせてきた。

父は言う。 「スキーを続けてきたおかげで長生きできた。家族には感謝しています。
死ぬまでスキーができたらいいですね」

兄の嘉之が立ち上げた(株)RCTジャパンの「マネジメントの理念」には、
以下の文章が綴られています。

ロックな精神を忘れずに、子供のように楽しみ、大人の振る舞いを備える
カッコイイ日本企業を創る為に起業しました。
体を動かし、楽しむことと笑顔を忘れない。
そして自分や仲間を大切にできる人こそがカッコいい生き方だ。

残念ながら兄は2020年に亡くなりましたが、
父から受け継いだロックな精神は僕や、会社で働くスタッフや仲間たちに
しっかりと引き継がれていると思っています。

僕はその系図を引き継ぎ、現在も数々の北欧ブランドを日本に紹介する
(株)RCTジャパンの代表を務めています。僕から見た父はというと、

「幼少期から中学までは、よく家族で志賀高原に連れて行ってもらいました。
父の後ろを滑ってスキーを覚えたから、今も下手なままです(笑)。父は、
海外に行けばほとんど家に帰ってこないし、スポーツカーを乗り回したり、
80歳になってもNゲージの模型をひたすら作っていたり、
人の10倍以上遊んできたと思いますよ。お金はほとんど使っちゃったけど
父からは遊び方を教わったという感じですね(笑)」

今の自分たちの仕事があるのは、根源に父の存在があるから。
子供のように楽しめる心がブランドのエッセンスとなって、
これからも育てていければと思います。

スキーには様々なジャンルがあれど、勝ち負けではなく、
純粋に家族や仲間と楽しんできた父。世代も国籍も超えてスキーが繋ぐ縁は、
次から次へとポジティブな輪を広げていきます。